シルバーフェアに作品を出典

茨木市シルバー人材センターのシルバーフェアが、去る2月22日(土)、23日(日)午前10時~午後4時まで茨木市民会館ドリームホールで、茨木市の後援、茨木市保健医療センター・茨木伝承玩具研究会の協力のもと開催された。
両日共に天候も良く700名を越す来場者が訪れた。

このフェアは、催し物コーナー(手芸品販売・物づくり体験・健康チェック・同好会紹介・センター紹介)展示コーナーでは、手芸品・工芸品・絵画・書・写真などの作品が多数展示された。
私も、俳句作品(画像参照)を出品し、来場者に俳句の素晴しさを下記の説明文加えて訴え、好評を博した。

silver-art

日本人の美意識は、万葉の時代から四季の移ろいを
その特有の感覚で詩歌の世界に詠み込んできました。

乱丁の 白紙のページ 蝶の昼

春(蝶)→壊れゆく美

花菖蒲 風に尾びれが あるような

夏(花菖蒲)→たおやかさの美

晩秋の 象やわらかく 膝を折る

秋(晩秋)→淋しさの中にある美

ハーモニカを 吹いて鯨を 呼び寄せる

冬(鯨)→郷愁の美

季語のルーツ

季語という言葉は、現在当たり前の如く使われているが、子規が名付けたと思われがちだが、大須賀乙字であることが、乙字の門弟の大森桐明によって、次のように語られている。
『季語といふも季題といふも実は同一の意味の言葉である。
子規以前には、「子規の詞」といひ、子規は、「四季の題目」といふ語を用ゐ、子規以後「季題」となり、乙字先生に至りて「季語といはれたのである。』(1929年『俳句講座補遺』より)

さて、俳句は連歌の発句が独立して、俳諧となり成立した経緯から、その季節の「題」は、和歌以来からの題「竪の題」。俳諧によって加えられた「横の題」がある。
具体的には、「雪、月、花、鴬、紅葉・・・」等は、竪題であり、「角力、踊り、ゑびす講・・・」は横題であることが、孟遠の「秘薀集」の中に記されている。

季語(季題)を纏めた、歳時記は明治時代に大きな変革を強いられる。
明治五年十一月九日、新政府により従来の太陰暦を廃して、太陽暦を採用する布告がなされる。
当時の俳人たちが用いていた歳時記は、『山の井』『増山の井』や馬琴の『俳諧歳時記』『四季部類』『季寄持扇』などであった。
だが、これらの歳時記は当然、太陰暦によるものであり、明治の新時代にそぐわないものだった。

そこで、明治七年、壺公(本名和壮)が、時代に即した歳時記『てぶりのひま』を刊行した。
壺公は一年十二ヶ月を、どのように春夏秋冬を振り分けるべきか腐心した。
その拠り所として、福沢諭吉の『改暦弁』や福羽美静の『歌題歳時表』が、三、四、五を春として、太陽暦は太陰暦の二ヶ月遅れと定めているのに対して、一ヶ月遅れとしたが、尚、解決しなければ問題があった。
そのままでは、新年は冬となり、現実の生活慣習に合わない不合理が生じたので、壺公は新年の季題を別格として、四季の前に置くことにした。
これが、現在の歳時記でも踏襲されている。

このようにして、『てぶりのひま』が新しい季題例の書として、用いられるようになったが、これは月ごとに作例を列記しただけのものであり、季寄せではなかった不満があった。
明治九年恒庵見左が、太陽暦の季題配列による季寄せ『俳諧題鑑』を刊行した。更に、荻原乙彦がもっと精密な季寄せを作りたいと考え、明治十三年『新題季寄俳諧手洋燈』(しんだいきよせはいかいらんぷ)が刊行された。
新時代に相応しく洋燈の名を付したのは、当時は石油ランプが各家庭に普及し、文明開化の象徴的な存在だったのを捉えてのものだった。

乙彦の季寄せは、月例は『てぶりのひま』と同様で、春(2、3、4月)、夏(5、6、7月)、秋(8、9、10月)、冬(11、12、1月)であったが、各月ごとに乾坤、公事、神仏、人事、衣食、家財、草木、気形の八部門に分けていた。
これは、現在の歳時記の分類の基を成す物であった。

その季寄せを覗いて見ると、「鞦韆」(ふらここ) 今小学校中ナル運動ノ一具、教員モ多クハ之ヲぶらんこト訛る。卑俗ノ甚シキ之ヲ正シテコソ教トハ云ハメ。其正キハ由左波利。
「福寿草」 此花陰暦元旦ニ必ズ開ク故ニ元日草ノ名アリ。今ハ人力ニシテ天然ノ観ニ非レバ珍賞スルニ足ラズ。とある。
今では、考えられない解説がなされている点が、とても興味深いものである。

 

歳時記のルーツ

季語という言葉は、現在当たり前の如く使われているが、子規が名付けたと思われがちだが、大須賀乙字であることが、乙字の門弟の大森桐明によって、次のように語られている。
『季語といふも季題といふも実は同一の意味の言葉である。子規以前には、「子規の詞」といひ、子規は、「四季の題目」といふ語を用ゐ、子規以後「季題」となり、乙字先生に至りて「季語といはれたのである。』(1929年『俳句講座補遺』より)

さて、俳句は連歌の発句が独立して、俳諧となり成立した経緯から、その季節の「題」は、和歌以来からの題「竪の題」。俳諧によって加えられた「横の題」がある。
具体的には、「雪、月、花、鴬、紅葉・・・」等は、竪題であり、「角力、踊り、ゑびす講・・・」は横題であることが、孟遠の「秘薀集」の中に記されている。
季語(季題)を纏めた、歳時記は明治時代に大きな変革を強いられる。明治五年十一月九日、新政府により従来の太陰暦を廃して、太陽暦を採用する布告がなされる。

当時の俳人たちが用いていた歳時記は、『山の井』『増山の井』や馬琴の『俳諧歳時記』『四季部類』『季寄持扇』などであった。だが、これらの歳時記は当然、太陰暦によるものであり、明治の新時代にそぐわないものだった。
そこで、明治七年、壺公(本名和壮)が、時代に即した歳時記『てぶりのひま』を刊行した。壺公は一年十二ヶ月を、どのように春夏秋冬を振り分けるべきか腐心した。
その拠り所として、福沢諭吉の『改暦弁』や福羽美静の『歌題歳時表』が、三、四、五を春として、太陽暦は太陰暦の二ヶ月遅れと定めているのに対して、一ヶ月遅れとしたが、尚、解決しなければ問題があった。
そのままでは、新年は冬となり、現実の生活慣習に合わない不合理が生じたので、壺公は新年の季題を別格として、四季の前に置くことにした。これが、現在の歳時記でも踏襲されている。

このようにして、『てぶりのひま』が新しい季題例の書として、用いられるようになったが、これは月ごとに作例を列記しただけのものであり、季寄せではなかった不満があった。
明治九年恒庵見左が、太陽暦の季題配列による季寄せ『俳諧題鑑』を刊行した。更に、荻原乙彦がもっと精密な季寄せを作りたいと考え、明治十三年『新題季寄俳諧手洋燈』(しんだいきよせはいかいらんぷ)が刊行された。
新時代に相応しく洋燈の名を付したのは、当時は石油ランプが各家庭に普及し、文明開化の象徴的な存在だったのを捉えてのものだった。
乙彦の季寄せは、月例は『てぶりのひま』と同様で、春(2、3、4月)、夏(5、6、7月)、秋(8、9、10月)、冬(11、12、1月)であったが、各月ごとに乾坤、公事、神仏、人事、衣食、家財、草木、気形の八部門に分けていた。
これは、現在の歳時記の分類の基を成す物であった。
その季寄せを覗いて見ると、「鞦韆」(ふらここ) 今小学校中ナル運動ノ一具、教員モ多クハ之ヲぶらんこト訛る。卑俗ノ甚シキ之ヲ正シテコソ教トハ云ハメ。其正キハ由左波利。
「福寿草」 此花陰暦元旦ニ必ズ開ク故ニ元日草ノ名アリ。今ハ人力ニシテ天然ノ観ニ非レバ珍賞スルニ足ラズ。とある。

 

種田山頭火について

種田山頭火ほど、家を捨て、妻子を捨て、旅と酒に溺れる破壊的な生涯を送りながらこれほど人気の高い俳人はいない。
それは、何故なのであろうか?管理社会で暮らす現代人にとって、すべての枠を取り払って、自由に旅に生きる俳人に、共感を覚えるのであろう。山頭火のその生活の原点は、明治25年(1892)に母親のフサが、井戸に身を投げて自殺したことに根があるのです。
引き上げられた母の姿を見た記憶を、後年「僕が11才(満9才)の春。
近所の子供たちと一緒に納屋の方え芝居ごっこをして遊んでいた。
母屋の方がさわがしいので行ってみると、人がよりたかったいて、猫が死んだのだ、子供らはあっちへ行け、と追い払われた。
僕は大人の股をくぐるようにして井戸のほとりに行くと、母が髪を乱し、冷たい体となって引き上げられていた。
泣き泣きすがりついて母を呼んだが、母は冷たい口をくいしばって答えなかった」と回想している。
この事件が、山頭火の生涯に大きな影を落としたのは、否めない事実であった。

山頭火の本名は、種田正一。その後俳句の師「層雲」の萩原井水泉が、「納音(なつちん)」に基づき、俳号を「井水泉」を付けたのに習い「山頭火」を俳号とした(1913年)。
この「納音」とは、古代中国の年号の数え方の「六十干支(ろくじゅうかんし)」(60種あり、60年で一巡する)と「五行」(木、火、土、金、水)とをあわせて2年ごとに配当して、それぞれの名をつけたものである。
しかし、これに当て嵌めると、山頭火の生まれ年の明治15年の納音は、「楊柳木(ようりゅぼく)」にあたるのですが、「雅号の由来というほどのものはありません。
たまたま見出したその文字と音と義が気に入ったので、いつとなく用いるようになりました」と書いて、明治8年の納音を付けて、山頭火としたようだ。
最初の放浪の旅に出たのは、大正15年(1926)だった。その後、たびたび各地を放浪するが、その放浪生活を支えたのは、師の井水泉であり、大正8年より親交のあった木村緑平であった。
特に緑平は、山頭火の経済的、精神的な支え手であった。

また、山頭火と酒とは切っても切れないものであるが、明治43年(1910)に長男が生まれた頃より、酒を飲み始めた。
最初は、酒の量はたいした事が無かったが、やがて自己規制が効かなくなり、飲んでは責め、自戒の言葉を吐くつつ呑んでしまう毎日になってしまうほどだった。
そして山頭火は自分の人生は「無駄に無駄を重ねたやうな一生だった」と言い、「それに酒をたえず注いで、そこから生まれたやうな一生だった」とも言っている。
その酒と俳句の関わりについて「肉体に酒、心に句、酒は肉体の句で、句は心の酒だ」と述懐している。
山頭火は、たびたび死場所を求めて放浪するが、反面「ころり往生」を口癖にしていて、あれほど放浪の旅を続けて、家に居つくことの無かったのに、文字通り昭和15年(1940)に一草庵の畳の上で、往生したのだった。

 

俳号について~トリビアな俳句雑学~

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俳号の巻

俳人は、作家のペンネーム、文人や画家の雅号、俳優や芸人の芸名などにあたる、俳号を付ける作者が多い。それは、名前をもじったものだったり、関わりのある事物や場所を読み替えてつけることが多い。
かの有名な文豪、夏目漱石のペンネームの「漱石」は、友人であった正岡子規の俳号を、貰って明治22年あたりから使い始めた。
その正岡子規は、他人に俳号を付けるのも巧いが、自身もおそらく日本一であろう、100余りの俳号を持っていたことで知られている。
自らの随筆「筆まかせ」の中に「走兎」「漱石」「丈鬼」「獺祭魚夫」「野暮流」「盗花」「浮世夢之助」「野球」「色身情仏」「面読斎」「猿楽坊主」「獺祭屋書屋主人」等々、愉快な俳号が書かれている。

とりわけ面白い「獺祭屋書屋主人」は、何にでも興味を抱く子規は、部屋中に本屋や書きかけの原稿や反古紙が散乱させていたという。
子規は「獺は魚を捕るのが巧く、すぐに食べずに巣にいろいろの魚並べて置くのを中国の詩人が「魚を祭る」と形容したことから、それをもじって自室を「獺祭屋書屋」と名づけたと、碧梧桐に語っている。
しかしこの中で、主に使われたのは、墓碑銘に書かれている「子規」「獺祭屋書屋主人」「竹ノ里人」など限られていたようだ。
芭蕉は、幼名を金作、のちに 宗房(むねふさ)と名乗っていた。そこで、本名を音読した「宗房(そうぼう)」を俳号としていた。
その後江戸に出て、1675年(延宝 3)大坂の西山宗因を歓迎する句会に出席、俳号を「宗房」から「桃青(とうせい)」に変えた。
また、住居を江戸の中心から深川に移し、門人李下(りか)が庭に芭蕉の株を植えたことから、この庵が「芭蕉庵」と呼ばれるようになり俳号として、1682(天和 2)より「芭蕉(ばしょう)」の俳号を好んで用いていた。