俳号について~トリビアな俳句雑学~

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俳号の巻

俳人は、作家のペンネーム、文人や画家の雅号、俳優や芸人の芸名などにあたる、俳号を付ける作者が多い。それは、名前をもじったものだったり、関わりのある事物や場所を読み替えてつけることが多い。
かの有名な文豪、夏目漱石のペンネームの「漱石」は、友人であった正岡子規の俳号を、貰って明治22年あたりから使い始めた。
その正岡子規は、他人に俳号を付けるのも巧いが、自身もおそらく日本一であろう、100余りの俳号を持っていたことで知られている。
自らの随筆「筆まかせ」の中に「走兎」「漱石」「丈鬼」「獺祭魚夫」「野暮流」「盗花」「浮世夢之助」「野球」「色身情仏」「面読斎」「猿楽坊主」「獺祭屋書屋主人」等々、愉快な俳号が書かれている。

とりわけ面白い「獺祭屋書屋主人」は、何にでも興味を抱く子規は、部屋中に本屋や書きかけの原稿や反古紙が散乱させていたという。
子規は「獺は魚を捕るのが巧く、すぐに食べずに巣にいろいろの魚並べて置くのを中国の詩人が「魚を祭る」と形容したことから、それをもじって自室を「獺祭屋書屋」と名づけたと、碧梧桐に語っている。
しかしこの中で、主に使われたのは、墓碑銘に書かれている「子規」「獺祭屋書屋主人」「竹ノ里人」など限られていたようだ。
芭蕉は、幼名を金作、のちに 宗房(むねふさ)と名乗っていた。そこで、本名を音読した「宗房(そうぼう)」を俳号としていた。
その後江戸に出て、1675年(延宝 3)大坂の西山宗因を歓迎する句会に出席、俳号を「宗房」から「桃青(とうせい)」に変えた。
また、住居を江戸の中心から深川に移し、門人李下(りか)が庭に芭蕉の株を植えたことから、この庵が「芭蕉庵」と呼ばれるようになり俳号として、1682(天和 2)より「芭蕉(ばしょう)」の俳号を好んで用いていた。

 

季語について~トリビアな俳句雑学~

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不思議な季語の巻

俳句には、不思議な季語(季節を表す言葉)がある。春の季語だけを採り上げても、「龍天に登る」「鷹化して鳩と為る」「山笑う」などがある。
「山笑う」と言われても、俳句をやっていない人には、理解できない。「山が笑うって、何だか気持ち悪い」とか「山が笑ったら、やかましい」なんて、言われそうだが、ちゃんと季語には根拠がある。
「山笑う」の出典は、中国の宋代のころの画家郭煕の「春山淡冶して笑うが如く」にあるという。
即ち、山の木々が次第に木の芽が立ち、光を帯びると笑っているようだと比喩したのを季語としたものだった。
因みに、「龍天に登る」だが、龍は当然、想像上の動物であることは、誰も知っている。あの、絵に描かれた龍は、中国の後漢(2世紀)の時代には、龍の体の、角は鹿、頭はらくだ、眼は鬼、耳は牛、うなじは蛇、腹は蜃、鱗は魚、爪は鷹、掌は虎からきているという説から、その姿を想像して頭には二本の角、耳のある長い顔で、長い髭(ひげ)をはやし、大蛇のような長いからだに四本足で、前足には宝玉を持っている、といった姿としたのだろう。
そんな姿から「龍は春分ニシテ天ニ登リ、秋分ニシテ淵ニ潜ム」(説文解字より抜粋)とした、中国らしい発想を取り込んで季語とした。

 

俳句と土方蔵三~トリビアな俳句雑学~

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土方歳三は俳句好きの巻

NHKの大河ドラマで「新撰組」が放映されて、また新撰組ブームになっている。新撰組の隊員で、誰が好きかとのアンケートで名前が上がるのが、「近藤勇」「土方歳三」「沖田総司」のようだ。その中で最近、人気のトップは土方歳三であると言われている。
土方歳三は、新選組副長として、隊務一切を切り盛りし、組織としての新選組を名実ともに創り上げた名補佐役で、誰にも知られている。その激しい生き様から、豪のものとしてのイメージが強い。
しかし、歳三は俳句を嗜む一面を持ち合わせていたことは、あまり知られていない。
祖父が「三日月亭巴石」という俳号を持つ俳人であったことから、 俳号を「豊玉」と名乗って、若い頃より俳句に親しんでいた。上洛する折りに、自ら「豊玉句集」を編み生家に残していったと言われている。その句集や短冊などの資料が、現在でも「土方歳三記念館」(東京都日野市)に残されている

差し向かう心は清き水鏡
手のひらを硯にせんとや春の山
願うことあるかも知れず火取虫
しれば迷いしなければ迷わぬ恋の道
春の草五色までは覚えけり

など、艶っぽいものから、俳諧味のあるものまで幅広く、人間味が溢れる句を作っていたようだ。
明治2年、新政府軍の函館総攻撃で、35歳の若さで戦死したのだが、その歳三を偲んで、義弟の佐藤彦五郎が

「待つ甲斐もなくて消えけり梅雨の月」

の句を詠んでいる。

 

俳句と夏目漱石~トリビアな俳句雑学~

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俳人漱石の巻き

夏目漱石は、「我輩は猫である」に代表されるように、明治の文学者として有名ですが、実は俳句に没頭していた。
作られた、その作品は2600句にも及ぶ。それも、明治28年5月子規にあてた手紙に

「小子近頃俳門に入らんと存候」

と書き、その年のより、明治32年までの間、1445句を作った。ということは、年間約361余句ということになり、その熱中振りが窺い知れる。
漱石は、俳句の師であった子規に、当時の新風を担う俳人として、虚子を筆頭に6番目に取り上げられている。

漱石は「俳句は禅味あり。西詩に耶蘇味あり。故に俳句は淡白なり。洒落なり。時に出世間的なり」(随想「不言の言」)と、自身の俳句観を書いている。
若い頃より寄席好きであった漱石は、日本橋の伊勢元によく通っていたことは、よく知られている。円遊がとても好きだったらしく、「我輩は猫である」の中にも登場させている。当然、俳句にも

「円遊の鼻ばかりなり梅屋敷」(明治32年)

と詠んでいる。
俳句を洒落っぽく捉えていた、漱石の一面を知ることができる。
こんなに熱中していた俳句を、明治33年にイギリスへ留学したのを機に、途絶えてしまう。

 

正岡子規と野球の関係~トリビアな俳句雑学~

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野球の語原の巻

競技人口の最も多いと言われる、野球は明治11年(1871)に東京の開成学校(現在の東大)の米国人教師H・ウイルソンが生徒に指導したのが、日本に於ける野球の誕生と言われている。正岡子規は明治十六年に上京し、明治十九年(1886年)に最初、ベースボールの訳語を「弄球」と名づけていた。
その頃盛んに弄球に興じていたことが、子規の随筆「Base-ball」に

「趣向は複雑でも、攻めてと防ぎ手と弾丸をめぐって応酬、擒にし、はさみ夾み撃しなど、これほど愉快にみちた戦争はほかにない」

と、当時の野球に対する様子が、今では考えられないようなユーモラスな解釈で書かれている。
また、明治二十三年に友人にユニホー姿の写真を同封して、次の句を添えた。

色男また時として此戯れあり
恋知らぬ猫のふり也玉あそび 能球拝 

即ち、子規の幼名「升(のぼる)」をもじった俳号の能球が後に、
「のボール」が「野球」となったと言われている。
そのことから、野球の名付け親は、俳人の子規であるという異説がある。他にも子規は現在で使われている直球、飛球、死球、打者、走者などの野球用語の訳語を残している。平成十四年に、野球発展の功績で俳人で唯一、野球殿堂入りしている。