種田山頭火ほど、家を捨て、妻子を捨て、旅と酒に溺れる破壊的な生涯を送りながらこれほど人気の高い俳人はいない。
それは、何故なのであろうか?管理社会で暮らす現代人にとって、すべての枠を取り払って、自由に旅に生きる俳人に、共感を覚えるのであろう。山頭火のその生活の原点は、明治25年(1892)に母親のフサが、井戸に身を投げて自殺したことに根があるのです。
引き上げられた母の姿を見た記憶を、後年「僕が11才(満9才)の春。
近所の子供たちと一緒に納屋の方え芝居ごっこをして遊んでいた。
母屋の方がさわがしいので行ってみると、人がよりたかったいて、猫が死んだのだ、子供らはあっちへ行け、と追い払われた。
僕は大人の股をくぐるようにして井戸のほとりに行くと、母が髪を乱し、冷たい体となって引き上げられていた。
泣き泣きすがりついて母を呼んだが、母は冷たい口をくいしばって答えなかった」と回想している。
この事件が、山頭火の生涯に大きな影を落としたのは、否めない事実であった。
山頭火の本名は、種田正一。その後俳句の師「層雲」の萩原井水泉が、「納音(なつちん)」に基づき、俳号を「井水泉」を付けたのに習い「山頭火」を俳号とした(1913年)。
この「納音」とは、古代中国の年号の数え方の「六十干支(ろくじゅうかんし)」(60種あり、60年で一巡する)と「五行」(木、火、土、金、水)とをあわせて2年ごとに配当して、それぞれの名をつけたものである。
しかし、これに当て嵌めると、山頭火の生まれ年の明治15年の納音は、「楊柳木(ようりゅぼく)」にあたるのですが、「雅号の由来というほどのものはありません。
たまたま見出したその文字と音と義が気に入ったので、いつとなく用いるようになりました」と書いて、明治8年の納音を付けて、山頭火としたようだ。
最初の放浪の旅に出たのは、大正15年(1926)だった。その後、たびたび各地を放浪するが、その放浪生活を支えたのは、師の井水泉であり、大正8年より親交のあった木村緑平であった。
特に緑平は、山頭火の経済的、精神的な支え手であった。
また、山頭火と酒とは切っても切れないものであるが、明治43年(1910)に長男が生まれた頃より、酒を飲み始めた。
最初は、酒の量はたいした事が無かったが、やがて自己規制が効かなくなり、飲んでは責め、自戒の言葉を吐くつつ呑んでしまう毎日になってしまうほどだった。
そして山頭火は自分の人生は「無駄に無駄を重ねたやうな一生だった」と言い、「それに酒をたえず注いで、そこから生まれたやうな一生だった」とも言っている。
その酒と俳句の関わりについて「肉体に酒、心に句、酒は肉体の句で、句は心の酒だ」と述懐している。
山頭火は、たびたび死場所を求めて放浪するが、反面「ころり往生」を口癖にしていて、あれほど放浪の旅を続けて、家に居つくことの無かったのに、文字通り昭和15年(1940)に一草庵の畳の上で、往生したのだった。
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