季語という言葉は、現在当たり前の如く使われているが、子規が名付けたと思われがちだが、大須賀乙字であることが、乙字の門弟の大森桐明によって、次のように語られている。
『季語といふも季題といふも実は同一の意味の言葉である。
子規以前には、「子規の詞」といひ、子規は、「四季の題目」といふ語を用ゐ、子規以後「季題」となり、乙字先生に至りて「季語といはれたのである。』(1929年『俳句講座補遺』より)
さて、俳句は連歌の発句が独立して、俳諧となり成立した経緯から、その季節の「題」は、和歌以来からの題「竪の題」。俳諧によって加えられた「横の題」がある。
具体的には、「雪、月、花、鴬、紅葉・・・」等は、竪題であり、「角力、踊り、ゑびす講・・・」は横題であることが、孟遠の「秘薀集」の中に記されている。
季語(季題)を纏めた、歳時記は明治時代に大きな変革を強いられる。
明治五年十一月九日、新政府により従来の太陰暦を廃して、太陽暦を採用する布告がなされる。
当時の俳人たちが用いていた歳時記は、『山の井』『増山の井』や馬琴の『俳諧歳時記』『四季部類』『季寄持扇』などであった。
だが、これらの歳時記は当然、太陰暦によるものであり、明治の新時代にそぐわないものだった。
そこで、明治七年、壺公(本名和壮)が、時代に即した歳時記『てぶりのひま』を刊行した。
壺公は一年十二ヶ月を、どのように春夏秋冬を振り分けるべきか腐心した。
その拠り所として、福沢諭吉の『改暦弁』や福羽美静の『歌題歳時表』が、三、四、五を春として、太陽暦は太陰暦の二ヶ月遅れと定めているのに対して、一ヶ月遅れとしたが、尚、解決しなければ問題があった。
そのままでは、新年は冬となり、現実の生活慣習に合わない不合理が生じたので、壺公は新年の季題を別格として、四季の前に置くことにした。
これが、現在の歳時記でも踏襲されている。
このようにして、『てぶりのひま』が新しい季題例の書として、用いられるようになったが、これは月ごとに作例を列記しただけのものであり、季寄せではなかった不満があった。
明治九年恒庵見左が、太陽暦の季題配列による季寄せ『俳諧題鑑』を刊行した。更に、荻原乙彦がもっと精密な季寄せを作りたいと考え、明治十三年『新題季寄俳諧手洋燈』(しんだいきよせはいかいらんぷ)が刊行された。
新時代に相応しく洋燈の名を付したのは、当時は石油ランプが各家庭に普及し、文明開化の象徴的な存在だったのを捉えてのものだった。
乙彦の季寄せは、月例は『てぶりのひま』と同様で、春(2、3、4月)、夏(5、6、7月)、秋(8、9、10月)、冬(11、12、1月)であったが、各月ごとに乾坤、公事、神仏、人事、衣食、家財、草木、気形の八部門に分けていた。
これは、現在の歳時記の分類の基を成す物であった。
その季寄せを覗いて見ると、「鞦韆」(ふらここ) 今小学校中ナル運動ノ一具、教員モ多クハ之ヲぶらんこト訛る。卑俗ノ甚シキ之ヲ正シテコソ教トハ云ハメ。其正キハ由左波利。
「福寿草」 此花陰暦元旦ニ必ズ開ク故ニ元日草ノ名アリ。今ハ人力ニシテ天然ノ観ニ非レバ珍賞スルニ足ラズ。とある。
今では、考えられない解説がなされている点が、とても興味深いものである。