俳句歴史街道──
現在の俳句と言われるもののルーツは、正岡子規であることは誰しも知っていることである。
しかし、その俳句の基は俳諧更に連歌へとその起源は遡らねばならない。
では、俳諧はいつ頃から始まったのかは、厳密には定かでない。その元祖を山崎宋鑑、荒木田守武とする桃山後期とする説と、明暦2年(1656)に貞室が編集した「玉海集」に
ある人の所望にて畳字の俳諧独吟に百韻せし時
花匂ふ梅は無双の梢かな 宗祗
と、あるのを論拠に、桃山中期以前とする説がある。
ともあれ、俳諧は和歌を母体として、発達した連歌から分生したものだった。もともと滑稽な和歌を「俳諧歌」といい、機知や滑稽を旨とするものを「俳諧連歌」と称していた。やがて「俳諧連歌」と言われるものが、俳諧として独立して行くことになる。
当然のことながら、俳諧は連歌の形式を踏まえて、連句という形式、即ち発句、付け合い句によって作られた。作者も、当初は連歌師が息抜きのために、余技として好んで作っていたことは、二条良基が纏めた連歌集「筑波集」に俳諧の部があることでもわかる。その俳諧がやがて庶民に受け入れられ、急速に発展した行くのである。
さて、その火付け役と言われているのが、松永貞徳である。貞徳は、九条稙通や細川幽齊から和歌を学び、里村紹巴から連歌を学んだ。故に貞徳は、その式目『俳諧御傘』」において、「仰、はじめは俳諧と連歌のわいだめなし。其中よりやさしき詞のみをつゞけて連歌といひ、俗言を嫌はず作する句を俳諧といふなり」と規定した。作風は、漢語、縁語、掛詞、故事に依拠するものを、詠み込んだもので、貞門風と呼ばれた。
たとえば、
萎るるは何かあんずの花の色 貞徳
などは、「杏子」と人を「案ず」を掛けて、作られている。
また貞徳は弟子を育てることに長けていて、安原貞室、北村季吟、山本西武、高瀬梅盛、野々口立圃、松江維舟などを育てた。やがて、貞門の形式主義に飽き足らずに、寛文年間末頃より、西山宗因を中心にした談林派が台頭してくる。談林派は、西鶴、惟中、高政、松意らを中心に、大坂、京、江戸を拠点として活躍する。
その作風は、貞門より更に、謡曲の文句を截ち入れたり、猥雑となり、「阿蘭陀流」とも称されるように、フラスコ、カステラ、カルタなどの洋語を取り入れたりもした。また「矢数俳諧」と言われる速吟も盛んに行われた。これらの新しく刺激的な俳諧もやがて、粗製濫造の極みを否定しがたく、延宝末年頃より、見直そうという機運が徐々に起きて来る。その批判的立場に立っていた一人に、松尾芭蕉がいた。
芭蕉は、当初は先に紹介した、貞門の北村季吟に俳諧を学んでいて、其の頃の俳号は宗房と称し、後に、江戸に出て桃青と俳号を変えて談林派と座を共にする。天和3年(1683)の『虚栗』の漢詩文調で、蕉風俳諧の道を拓く。其角、嵐雪、許六、去来、支考、丈草、杉風、北枝、野坡、越人などの優秀な弟子を輩出するなど、その作風は「さび」「かるみ」の句境に至り、蕉風の完成をさせ、また「不易流行」という文学観を唱えて、俳諧を真の詩的世界にまで、至らしめたのは言うまでもない。
芭蕉の死後、俳壇は江戸の焦門と地方の焦門とに分化する傾向が顕著になり、衰退の傾向が強まる。その後、芭蕉の五十回忌を契機にして、芭蕉を追悼する機運が高まり、蕪村などを中心に蕉風復古運動が各地で高まっていった。
それらの中興俳壇を担った俳人は、寛政年間にほとんど姿を消し、文化年間になると、夏目成美、酒井抱一、建部巣兆、鈴木道彦、大伴大江丸、井上士朗、亙理乙ニなどが活躍する時代へと移行してゆく。この時代は、幕府の管理体制により、革新への自由が束縛され、俳諧も平明でわかり易いが、精神の高さのない逃避的なものとなっていった。その時代で、唯一異彩を放ったのは、小林一茶である。時代は幕末の天保期に移り、更にその傾向が強まり、後に子規に「月並み調」と揶揄されるに至った。
年号が明治となり、世の中は大きく変革したのに関わらず、俳諧は依然として幕末の傾向を引き継いだ状態であった。老鼠堂永機、春秋庵幹雄、小築春湖、夜雪庵金羅などが、「月並み俳句」を継承するような状態だった。新時代の相応しい俳諧を目指して革新への機運は、明治20年(1887)尾崎紅葉を中心とした「紫吟社」の眉山、鏡花、秋聲らと伊藤松宇の「椎の友社」の猿男、桃雨、桂山などによって、見られるようになった。
本当の意味の俳句の革新は、正岡子規が明治24年(1891)より古今の句を用語、主題、技法などに俳句の分類に取り組み、6月から新聞日本に「獺祭書屋俳話」を掲載した。、明治25年に新聞日本に入社して、ますます俳句革新に取り組み、当時の俳諧の宗匠たちが、依然として天保の俗調を守り続けるのを、「月並み派」と呼び、発句を俳句と改めたのも、この頃であった。
実景を写すこと、即ち写生を俳句に取り入れることになったのは、明治27年に洋画家の中村不折に出会って、洋画の技法である写生を教えられた時であった。その写生の技法が子規の仲間たちを中心に、推し進められた。
子規が没後、門人の碧梧桐は自由律俳句を目指して一時的なブームを呼ぶが、少し行き過ぎであるということで見直され、高浜虚子が子規の精神を受け継ぎ、「ほととぎす」の建て直しを図る。 そうした流れが、現在でもそれぞれの結社という支流となって俳句界を形成している。
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