栗甘くわれら土蜘蛛族の裔 清子
広辞苑によれば、土蜘蛛は神話伝説で、大和朝廷に服従しなかったという辺境の民の蔑称、と書かれている。即ち、反体制の神として土蜘蛛のように、土着して時の体制に臆することなく、生き続けた子孫の総称。清子は、自らの身を置き換えて、大らかに土蜘蛛の末裔だと面白がっている。栗の甘さは、時の権力者のおごりや緩みを象徴しているのだろうか?最近の官僚の不正やだらしなさを思えば、よけいに土蜘蛛の子孫でありたい思える。この句は句集「沙羅」から引いた、津田清子の句。
椿の実空気ぶつかる音すなり 奈良夫
椿は「万葉集」に既に六首詠まれている。大伴家持が「あしびきの八峰の椿つらつらに見とも飽かめや植えつける君」と詠まれるぐらい、この頃から栽培されていた。江戸時代初期には、江戸と京都でそれぞれ内容の異なる、椿の図鑑「百椿図」が刊行されていて、当時の流行でもあった。僧侶カメルにより、ヨーロッパに渡り、椿の属名カメリアとして、その名が残っている。非常に愛好されている。さて、椿はその花だけでなく、実も趣がある。硬い外皮に覆われた実は、空気がぶつかれば、ごつんごつんと音が出そうである。この句は、俳句研究10月号のテーマ競作「秋の木の実を詠む」より引いた、山本奈良夫の句。
聞き流すつもりの相鎚 栗を剥く よしひろ
近頃、手抜き商品がヒットしている。栗も手が汚れると言う理由で、皮を剥いた商品が出回っている。しかしどうだろう、そんな栗からは、とてもこんな句は生まれない。
栗を剥くという仕草や時間の流れが、タバコをくゆらせる動作と同様、一つのドラマの作り出す。話し相手はだれであろう?栗だから、とても近しい関係=おそらく妻や子や親族、親しい友人であろう。しかも相鎚で済ませるぐらいだから、さして深刻な話題ではなさそうで、ちょっとユーモアを感ずる、生活感のある句。この句は、「青玄合同句集11」から引いた、山崎よしひろの句。
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