鶏たちにカンナは見えぬかも知れぬ 白泉
白泉は嘗て「句と評論」の中で、季語の作用を分析し「超季の俳句」のビジョンを説いた。その作風には、独特の屈曲した美意識がある。掲句も、人間と鶏との視界の違いを取り上げたのではあるまい。ここに表現された鶏は、鶏そのものではなく、鶏の姿は庶民の象徴であろう。世の中の動きは、一見大衆と言える庶民が動かしているように見えるが、私たちの知らない一部の人たち(政府の高官や役人)が動かしている。その眼前にあるカンナが見えない鶏(庶民)の悲しみを詠んでいると思える。句集に、この句と並んでいる「向日葵と塀を真赤に感じてゐる」もまた、同様の句意を感じる。この句は、「白泉句集」より引いた、渡辺白泉の句。
郭公や何処までゆかば人に逢はむ 亜浪
亜浪は大正三年(1914)夏に、病後の療養のため渋沢温泉の滞在している。この句は、その折詠まれたもので、「ひとり滋賀高原を歩みつつ」の前書きが付けられている。郭公は芭蕉が「うき我をさびしがらせよかんこ鳥」と詠んでいるように、閑古鳥ともいう。今は、鳴き声から郭公という呼び名が定着している。またその生態は奇妙で自分の卵を他の鳥(大ヨシキリ等)に抱かせる。亜浪は、療養の地の山路を人恋しさに絶えながら歩を進めている。そこには、郭公に問いかけ、自問する亜浪姿がある。この句は「亜浪句抄」より引いた、臼田亜浪の句。
夏つばめ羽ばたくことははみ出すこと 恵介
燕は私たちの身近にいて、親しみの持てる存在だが、雀や鳩や烏とは違って、その姿のスマートさや飛翔する様は、美しく壮観である。。とりわけ、家燕よりはるかに高空を高速で飛翔する雨燕が大好きだ。そうした、燕が持つエネルギーをある種の青春性のイメージへと転化させて詠んだのであろう。燕が風を捕らえて滑空する様は、多く俳句に詠まれているが、飛び立つ前の羽ばたきを捉えた視点がユニーク。また「青春とははみ出すこと」とでも、主張しているような端的な言葉は素敵だ。いま、青空を燕が青春という空間を切り取っている。この句は「船団」57号に特集されている、俳句50句より引いた塩見恵介の句。
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