枯野はも縁の下までつゞきおり 万太郎
万太郎は、小説家としてだけではなく、俳句は余技であると言いながら、こよなく愛していた。『万太郎句集』の後記の中で「わたくしは俳句を、小説を書き、演出に関する仕事をするひまひまを縫ってつくります。従ってわたくしの俳句はわがままであります。必ずしも俳句の規格にしたがひません。しかしわたくしをはなれて・・・わたくしの生活識域をはなれてわたくしの俳句は存在しないのであります」と書いている。掲句には「病む」と前書きが付いている。この頃、万太郎は既に妻を無くしていた。病床から見る枯野は、縁の下即ち自分の寝ている布団のしたまで、一人暮らしの淋しさのように忍び寄って来る。「はも」という詠嘆語が、強くその心情を表している。この句は、句集「草の丈」から引いた、久保田万太郎の句。
路地住みの終生木枯きくもよし 真砂女
真砂女は、「春燈」で久保田万太郎に師事した。また、銀座一丁目の路地の奥で、小さな「卯波」という小料理屋を、営んでいたことで知られている。店でも終日、着物を着て立ち働いていた、この句から気概が伝わってくる。「終生」という一見言えそうで言えない言葉を、句に載せたことは、その地(店)を愛し、店を訪れる人を愛していたのであろうことが窺い知ることが出来る。真砂女は、「終生」を実践した。その生き様をモデルにして、丹羽文雄が、「帰らざる故郷」という小説にしている。この句は、句集「夕蛍」より引いた、鈴木真砂女の句。
冬枯れのメタセコイアのこの微熱 節子
メタセコイアは1941年、中国の四川省で発見され、生きている化石だと騒がれた。アメリカの学者により種子から苗が育てられ、日本でも栽培されるようになった。その成長は早く、材質も柔らかい。そして、なにより葉が対生して細かく、若葉の頃は手で触れると心地よい。また紅葉の頃の枯れ色は、独特の風合いで美しく好きな樹木だ。メタセコイアは、冬枯れになれば小枝ごと落ちる。節子はその様を、微熱だと感覚的に捉えた。「この微熱」の「この」という表現は臨場感たっぷりだ。この句は、「船団」57号から引いた、鶴濱節子の句。
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