花火待つ花火の闇に脚突き挿し 鷹女
鷹女は闇を粘性のある液体のように捉え、脚を突き挿すという感覚で表現したのであろう。また闇の中でも、花火を待つ闇はことさら、美しくそしてやがて崩れる儚いものが感じられる。だからこそ、その闇を強調するため敢えて、花火という言葉を重ねている。第一句集「ひまわり」に見られる“夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり〟の句のような女性意識の強い、ひらき直りの句から一転して、この句は、鷹女六十歳頃の作品なので、たぶんその闇の中に、死後の世界をも意識していたのかも知れない。この句は、三橋鷹女の句集「羊歯地獄」(1961年刊)より引いた。
2l(リットル)ほど 暗紫色の 夜を下さい 恭子
恭子は闇を色とその量にこだわった。2リットルの夜とは、どれほどの深さの闇だろう。たとえば、2リットルだからペットボトル一本分の暗紫色の液体を水槽に流し入れた時のゆっくりと広がる暗紫を創造すればよいのかも知れない。それは広がり行く速度といい、その色合いといい、とても美しい。その闇は、心の中に棲みついた悲しみを消す薬だと解釈することが出来る。この句は、松本恭子の句集「夜の鹿」から引いた。この句集には“ふたつの鎖骨そこから椿の木になりて”など、独特の感覚的な句が沢山ある。松本恭子は青玄無鑑査同人、吟遊の同人である.
梅雨茸の闇に笑える鬼瓦 峻
梅雨になると、切り株や地面に忽然と、うらむらさき、さくらたけが生えているが一部を除いて食用にならないものが多い。その色は毒々しく、ぬめっとしていて気味悪い。そんな梅雨茸の闇は、じめじめした湿気を帯び、まるで呪術にかけられたような、気分にさせられる。一方、鬼瓦は南北朝の政変戦乱の世から、建物の守護の目的に作られたものだったのだから、邪気に臆せず梅雨茸に笑いかけている姿と詠めば重苦しい。梅雨茸を笑い茸と見立てれば、ちょっと愉快な俳諧味のある句と詠める。余談であるが、現存する鬼瓦の最古のものは、貞治二年(1363年)の大和長弓寺本堂のものである。この句は、佐々木峻の句集「まどひ」(1998年刊)より引いた。
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