百代の過客しんがりに猫の子も 楸邨
書き出しの百代の過客は、松尾芭蕉の奥の細道の「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」の冒頭文を引用している。楸邨自身も芭蕉以来の道統の継承者として、たびたび奥の細道を旅している。さて、百代の過客とは李白の「春夜桃李ノ園ニ宴スルノ序」に「夫レ天地ハ万物ノ逆旅、光陰ハ百代ノ過客ナリ」の一節に拠るものと言われているが、その意味合いは、永遠の旅人と解釈できるだろう。その時の移り変わりの中の道程のしんがりに、身近な動物の中で干支にも洩れた猫を配した所に、哲学が見て取れる。人間探求派にして、愛猫家のらしい一面。この句は、加藤楸邨の句集「雪起し」より引いた。
抛らばすぐに器となる猫大切に 幸彦
猫は何かに化けるとか、一方では霊的な存在として神として崇められる。エジプトではピラミッドのレリーフは言うに及ばず、猫の頭部を持つ、愛と歓喜と音楽を司るとされる女神「バスト」が作られ、猫を神格化している。幸彦はそんな猫の神秘的部分に惹かれて、この句を成したのだろう。確かに、猫はじっと寝ている姿見ていると、そのまま器になってしまうかもしれない。そこに「抛る」という、乱暴な行為と相反する、「大切に」という情緒的な言葉をつけたことにより、猫の存在を魅力的にした。この句は、摂津幸彦氏の句集「与野情話」(1977年刊)より引いた。
花の下 猫のあくびにつられている 美智子
この句を詠んだ時、漱石の「永き日や欠伸うつして別れ行く」の句を思い出した。これは人間同士の関係。しかし、掲句は人間と猫との関係である。猫の仕草を見ていると、ついつい引き込まれて、猫嫌いな人には解からないかも知れないが赤ちゃん言葉などで話し掛けてしまう。花の下での猫と作者とのほのぼのした交流。それが欠伸をしている姿であっても、春ののんびりした風景を際立たせて絵になる風情である。この句は青玄同人西田美智子氏の句集「猫ねこネコ」(1996年刊)より引いた。
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