凪わたる地はうす眼して冬に入る 蛇笏
10月16日に、声を出して味わう「日本の名俳句100選」(中経出版)が発刊された。この本の珍しいのは、副題に「声を出して味わう」とあるとおり、檀ふみの俳句朗読のCDロムがついている。更に、俳句にそれに見合った伊丹三樹彦の写真も付いてる。監修は金子兜太が行っているという親切ぶりだ。この句は、そこから引いた飯田蛇笏の句。蛇笏は、五人の子息のうち三人の逆縁に逢うが、その試練に耐えて、孤独な魂そのものを俳句に定着させた。この句も、波風が立たない海を背景に、何故かうす目をする大地。その対比は、自然界をモチーフにして、哲学的な要素を内包しているように思える。厳しい冬に対する姿勢そのものの句だ。
女の目栗をむくとき慈顔かな 欣一
木の実の季題は、俳諧で『花火草』、『毛吹草』などで、使われていて、「こもり居て木の実草の実ひろはヾや」(芭蕉)の例句がみられる。近代になって、俳人の好みの季題となた。そして、木の実は「よろこべばしきりに落つる木の実かな」(風生)、「老の掌をひらけばありし木の実かな」(夜半)などに見られるように明るい雰囲気のものや郷愁のある句が多い。欣一の句は、どちらかと言えば、前者の方である。栗を剥く時、男女に関わらずどこか嬉しい気分になり顔がほころぶものであるが、慈顔と表現されると、まるで菩薩のような顔を創造して、こころ温かい。この句は句集「二上挽歌」より引いた、沢木欣一の句。
道化師の眼のかなの眼が瞬ける 白泉
白泉の句を読んでふと、船越桂の彫刻を思い出した。その彫刻は、あるときは背中に天使の羽根のような手が生えていたり、肩の上にこんもりと山があったりする異形の注目されがちだが、目の表情が好きだ。桂自身が「何だか変だ、さっきから同じ景色が過ぎている。早く考えなくては、こっちの気付いた事を知られる前に」と書いているように、彫刻の目は遠くを見ているような、心の中を覗いているような表情をしている。この句の道化師の眼は、悲しげでありどこかに憂いを湛えている、桂の彫刻の眼に似ている。この句は、渡辺白泉の「白泉句集」から引いた。