紙をテーマにした俳句・その2(厳選三句)

sanku

紙コップ ゆらゆら 雲海の底知らない やすし

学生時代に立山に登ったことがある。その折、山小屋から出て、張り出した岩場の突端から眺めた雲海の美しさは、今でも忘れない。もこもこと、まるで綿を一面敷き詰めたような様は子供でもなったかのように、身を投げて見たい気分になったものだ。掲句は、山上から眺めたものか、あるいは機上から眺めたのであろうか?よほで深く立ち込めた雲海であったのであろう。紙コップのゆらゆらは、足元にまで迫っている雲海に吸い込まれてゆくような不安感を表出させている。また、反面その深さに思いを馳せている心地よさも、感じられる。この句は、大西やすしの句集「黄落都市」(沖積社 平成10年7月刊)より引いた句。

和紙の里ゴッホのような帽子で来た 美智子

和紙の里といわれる場所は、全国に多数ある。美智子は福井県に居住していることから、福井の越前和紙の里を訪れた折の句であろう。越前和紙の歴史は、約1500年前に岡太川上流に美しい姫が現れ、村人に紙漉きを教えたという故事があるぐらいである。掲句の不思議で魅力的な取り合わせは、「ゴッホのような帽子で来た」という措辞にある。ゴッホのような帽子は、「ゴッホが被っていた帽子」。それとも、「ゴッホそのもののような帽子」。とも、多様な読みを起させる面白い句だ。この句は、「21世紀俳句ガイダンス」(現代俳句協会編)の中より引いた、関戸美智子の句。

蝉しぐれ 気がつけば紙ねじっている 國人

万葉集に「「安芸国長門島にて船を磯辺に泊てて作る歌、石走る滝もとどろに鳴く蝉の声をし聞けば京師し思ほゆ」大石蓑麿(巻15、三六一七)と詠まれているのが、唯一の蝉の一首である。昔はやはり蝉時雨のような一斉に鳴きたてる風情よりも、蜩や空蝉に悲しみや哀れを読み込むのが主流であったようだ。さて掲句では、蝉声で泡立つような夏の暑さが、違った視点で捉えられている。何か書きかけていた紙を、いつの間にか感情が高ぶり、その紙を破くのではなく、ねじっている。紙をねじるという行為は、体に巻きつくような熱波であり、炎昼を際立たせている。この句は「青玄合同句集」11より引いた、東國人の句。