手が見えて父が落葉の山歩く 龍太
父、飯田蛇笏を昭和三五年を詠んだ飯田龍太の句だが、その頃は蛇笏は老年。自解文に「早春の昼下がり、裏に散歩に出ると,渓向うの小径を、やや俯向き加減に歩く姿が見えた。(中略)明るい西日を受けた手だけが白々と見えた。くらい竹林のなかから、しばらくその姿を眺めただけで、私は家に引き返した」とあるが、龍太の父に対する愛情が、手という身体の一部分を、鮮やかにクローズアップすることにより、強く感じられる。「残された母が雪踏む雪明り」など、龍太の句には家族を詠んだものが、多い。この句は句集「麓の人」(昭和40年)から引いた。
銀杏落葉掌に受け 余生がいっぱいある 椰子夫
掌という字は、手とひらたい意とともに、音を示す尚を合わせて、「てのひら」の意味を表す。そのことから、孟子の言葉の「掌上に運(めぐ)らす」は手のひらに物をころがすの意を転じて、たやすく自分の思いどおりにするという意味。
椰子夫も、孟子のように銀杏落葉を掌に受け、残りの人生を自分の思いどおりに、何をして過ごそうかと、思案しているように思える。「秋の灯の届くところで まあ しあわせ」「御老体と見られ 寝たふり 初夏のバス」などの作品を見れば、既に余生を自在に操っている。この句は、「青玄合同句集11」から引いた、青玄無鑑査同人守田椰子夫の句。
胸におく掌 私がわたしと話す夜 美津子
心というのは、何故か胸の中心の心臓にあるように、誰もが思っている。そして、心に関する「心が洗われる」「心が騒ぐ」「心が通じる」など慣用句が極めて多い。
夜中、ふと何かが気にかかり、眠れないで悶々とする時がある。人によってその時仕草は様々だが、作者は胸に掌を置く。心臓の鼓動が、自分の問いかけに答えてくれているように、思っているのだろうか?胸に掌を置いて寝る姿を、そのまま俯瞰して見れば、祈りの姿にも見える。谷川俊太郎の詩「やわらかいいのち」の一節を反復しながら、眠りについた・・・。
この句は「青玄合同句集11」から引いた、引田美津子の句。